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銭屋五兵衛句碑
「若竹や風すき通う潟つづき」。幕末の加賀藩の豪商銭屋五兵衛は、「亀巣」の号を持つ俳人でもありました。 「海の百万石」ともいわれ、河北潟の干拓という雄大な構想に取り掛かりましたが夢半ばにして獄中の人となり獄死をとげています。
銭屋五兵衛は1773年12月宮越(現在の金沢市金石)に生まれます。加賀藩の御用商人として海運業を成功させ、後に三百万両と言われる巨万の富を築いた豪商でした。天保年間には飛ぶ鳥を落す勢いで、加賀藩ばかりでなく、会津藩、津軽藩、南部藩、伏見宮家の金融御用方を努めています。 その後、加賀藩において五兵衛の後ろだてであった奥村栄美が亡くなったことから活躍の場に暗雲が立ち込め始めます。河北潟の埋め立てによる水田開発に一族の存続と繁栄をかけたのですが、工事は規模があまりに大きく、周辺で漁業に携わる人々の妨害にあったり、なかなか進まずにおりました。そのうち、河北潟に死んだ魚が大量に浮き上がり、魚を食べた住民が中毒死する事件がおきると、「銭五一族が潟に毒を投げ入れた」とする風説が流れ、この流言によって銭五は投獄されてしまいます。無実を訴えながら獄中死したのは80歳の時でした。一族もはりつけの刑などをうけ、一大で巨額の財をなした豪商は没落してしまいました。
この句碑は昭和40年代に河北潟の干拓事業が完了したのを期して河北潟が一望できるこの地に建立されました。隣には作家船橋聖一による小説「海の百万石」の一部が副碑として残されています。
(「内灘町史」より)
高浜虚子の句碑
「東西南北 星の流るる 夜なりけり」高浜虚子の筆跡のまま彫られた3行の句碑が、内灘中学校の前庭に建立されています。
「この内灘の夜空は広い。東西南北どこを向いても、夜空を遮るものはない。流れ星は端から端までずっと流れ、最後まで見届ける事ができるほど、この地の夜空は広い」・・・まさに“自然の雄大さとすべてを包んでくれる優しさをもつ内灘”を表しています。昭和31年内灘村へ来られた時、 高浜虚子が、内灘を車で回られ、案内をした初代内灘中学校長の前川長作先生(雅号:汀人)に後日渡すように置いていかれた句です。虚子によって色紙に書かれた筆跡は句碑におさめられています。
平澤嘉太郎の碑
「北陸の材木王」と言われた平澤氏の碑です。 大正14年(1925)内灘砂丘に「自分の別荘を持ちたいとは思わない。日本一のこの大砂丘に市民の別荘を造るのが私の夢」といって開設したのが「北陸の宝塚」と言われた「粟ヶ崎遊園」です。 昭和7年6月1日に69歳で亡くなった嘉太郎を偲んで、昭和33年に嘉太郎が晩年を過ごした「羽衣荘」の在った場所に記念碑が建てられました。 平澤嘉太郎氏、粟ヶ崎遊園について詳しく知りたい方は、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」に行ってみられてはいかがでしょうか。
北陸の宝塚 不毛の砂丘に出現したパラダイス 「粟ヶ崎遊園」
「自分の別荘を持ちたいとは思わない、日本一のこの大砂丘に市民の別荘を創るのが私の夢」。 1925(大正14)年に北陸の材木王と言われた平澤嘉太郎のロマンが創り上げた粟ヶ崎遊園。第二次世界大戦の影響もあり1941(昭和16)年に閉園しています。
粟ヶ崎遊園は平澤氏が大正14年に資材を投じて作りましたが、大劇場・大浴場・こどもの国・野球場・ゴルフ場(冬はスキー場に)宿泊施設があって、県内外の多くの人たちでにぎわいました。学校の遠足・修学旅行・職場や農閑期の慰安旅行、新婚旅行などで石川のみならず、富山・福井からも大勢の人がおしよせたようです。 平澤嘉太郎は、宝塚歌劇団創設者の小林一三氏を尊敬しており、彼のやり方を見習ったようですが、やはり 神戸という大都会を後ろに控えた宝塚とはわけが違い、石川県では人口の少なさや、産業のことなどありなかなか難しいこともあったようです。
遊園への集客の足として、浅電を作り14年には浅電開業となりましたが、一気に内灘までとはいかず、浅電の工事も3期にわけて行われたようです。 浅電が内灘(海水浴場)まで到達したのは昭和4年のことでした。その後、昭和20年に北陸鉄道と合併。北陸の宝塚と言われ、連日長蛇の列ができる、大盛況で、中でも目玉は、粟ヶ崎少女歌劇団。レビュウーを目当てに長蛇の列ができたと言われます。その他、大衆演劇も人気でした。
やがて第二次世界大戦の影が色濃くなるにつれ、演目も戦争ものが多くなりました。人々も娯楽どころではなくなり、昭和16年 小学校が、国民学校といわれたころに遊園も休園となりました。 その後、日本コピーライターの疎開工場として使われ、軍の仮兵舎となったりしました。 昭和26年にオリンピック博覧会が開かれたのを最後に建物は売りに出されました。旧本館は、藤か高校の同窓会館、紅葉館は繊維工場として使われることになりました。
現在では、本館入り口のみが当時のまま粟ヶ崎遊園跡地に残され、その後、現在の場所に移築されました。
(「内灘町史」より)
内灘闘争と米軍試射場跡
1952(昭和27)年、内灘砂丘を米軍砲弾試射場に使用するとの政府の発表により勃発した内灘闘争。1953(昭和28)年3月18日の試射第一弾から3年10か月の内灘海岸での試射は1957(昭和32)年1月12日で終了し、内灘の浜に静けさが戻ったのは3月30日のことです。その間、試射の指揮所として使われた建物が、今もひっそりと残されています。 1953年(昭和28)1月から海岸に米軍基地が作られ、周辺には他に兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられました。試射指揮所は試射をする射撃手に指揮をする為に建てられた建物。着弾地観測所は、砲弾の着弾様子を観測する為の建物です。権現森と西荒屋の2ヶ所に建てられました。
当時、内灘村は石川県でも有数の寒村で、男たちは出稼ぎ漁業でおらず、村に残された老人や女性、子どもまでもがムシロ旗を持って砂丘に座り込みの反対活動を続けます。生活の場を奪われることへの、住民たちの不安と怒りが大きな運動となり、その運動はやがて全国に広がり、内灘村には労働運動家や学生活動家などが終結するようになります。 大きくなりすぎた運動は、当初の村民たちの思惑からかけ離れ暴走する姿も見られます。地元の大根布農協や若者たちが愛村同士会を結成し、外部団体を排除する動きもでてきました。
国会議員の国政選挙、村長のリコールや辞職など政治問題を経て、1956年アメリカ軍から試射終了の通告があり、半年にも及ぶ座り込みは終了。後に内灘闘争と呼ばれる動きは静かに収束していきます。内灘町歴史民族資料館「砂と風の館」には当時の資料などが展示されています。
(「内灘町史」より)
井上靖文学碑
「日本海美し 内灘の砂丘美し 波の音聞きて 生きる人の心美し」
井上靖は、旧制4高時代に通った内灘砂丘をこよなく愛し、この文学碑を建立するにあたっても、井上氏の意向を聞き内灘の高台であるこの地に建立されています。手取川上流の白い自然石に自然のままの岩肌に直筆の文字が刻まれています。 昭和50年3月井上氏を敬愛する内灘町民と石川県下有識者によりこの碑が建立されました。3月の除幕式には、氏が家族と共に出席し、6月には、長男夫妻と共に再訪されています。 昭和61年 金沢の石川文学館横に井上靖文学碑が建立。 平成3年1月29日井上 靖 死去。84歳でした。5月5日、井上 ふみ夫人が内灘の文学碑を訪れています。
小濱神社
歴史
三韓征伐の折、勝利した神功皇后が、以後 朝鮮半島から貢物が送られるようになる。また 半島からの夷賊が攻めてくる恐れもあるその守りの場所として今のかほく市の大崎に出雲日隅宮の分身をまつったのが起源と言われています。その後 風と砂との闘いで、移転を繰り返し、安土桃山時代に権現森に移転しました。その後も風と砂の戦いで、1714年には今の社祉に建立されました。その後、羽柴秀吉が加賀に進行した際にここで一泊、その時に斉藤宮司の配下の屈強な者と秀吉の家来が相撲を取って秀吉を楽しませたことから、今でも大根布の秋祭りの後祭りで相撲大会が行われています。
また、前田利家が末森城の戦いの折、利家をもてなし斉藤家に槍を与えています。それ以後小濱神社は加賀藩の崇敬社、前田家の祈願所となっています。
1803年本殿焼失 30年ほど仮本殿。1831年、五郎島へ移転。1889年、大根布へ帰り本殿を移設。これが文化財となっています。
(「内灘町史」より)
内灘という町
内灘町は、石川県の中央に位置し、能登半島の入り口、県都金沢の北西にあるベッドタウンです。町全体が、手取川が運ぶ土砂が海流に流され堆積した細長い砂丘の上にあり、日本海と河北潟に挟まれた珍しい地形の町でもあります。 山が無く、農業に適しない砂丘の地で、古くから人々は海や河北潟で漁を営んでいましたが、収入が漁獲量に左右されるため、北海道や九州まで男たちが出稼ぎ漁に出なければならない寒村でした。 1972(昭和47)年、金沢医科大学とその2年後に金沢医科大学病院が開院し、周りには何もなかった砂丘地の頂に突如白亜の建物が現れました。金沢医科大学と大学病院は内灘町のシンボルとなると同時に、多くの雇用を生み出し、周辺では住宅地造成とインフラ整備が一気に進み、町の人口が倍増します。 かつて貧しい漁師村だった内灘は、今では豊かな自然と都市機能が調和したコンパクトで住みやすい町へと変貌を遂げています。
浅電
北陸鉄道浅野川線は、北鉄金沢駅と内灘駅の間の6.8キロメートルを10の駅で結ぶ鉄道路線です。金沢駅の地下から乗車できます。 この電車、車両がマニアの方にはたまらないものらしく、内灘駅周辺には撮り鉄らしき方の姿が絶えません。
現在の車両は(2019年12月時点)昭和39年に東急車輛で製造され、平成8年まで京王電鉄井の頭線で使用されていたものです。京王電鉄時代から50年あまりにわたり利用されてきたこの車両、内灘においても人々が金沢市内への通勤・通学に利用する、まさしく生活の足として活躍しています。
内灘駅
北鉄浅野川線の終着駅である内灘駅はモダンなたたずまいの駅舎です。駅舎の一角には、戦前、一大パラダイスとして栄えた「粟ヶ崎遊園」の正門をデザイン化したトイレが設置されています。実はこのことは、通勤通学で駅を利用する地元の人にもあまり知られていないのですが、一度じっくりと外観を眺めてみてください!
酪農団地
石川県内の牛乳生産量の半分強を生産しています。昭和38年に国営河北潟干拓事業発足、昭和60年干拓事業終了。潟の4分の3が干拓事業により農地として干拓されました。現在十数軒の酪農家が、河北潟で酪農を営んでいます。
鉄板道路
現北陸鉄道浅野川線内灘駅前から内灘海岸へと続く幹3号線は、かつて内灘砂丘に設置された米軍の試射場へ砲弾を運ぶため、砂地の路上に穴の空いた鉄板を敷き詰めたことから(砲弾を運ぶトラックの臨時輸送路として)鉄板道路と呼ばれています。
室の青塚
内灘砂丘の最も標高の高い場所にある「室の青塚」。 この丘はおよそ1,500平方メートルの広さがあり、権現森と並んで内灘砂丘では数少ない、「ねむの木」の生い茂った場所でもありました。かつて、沖を航行する船が航海の目印にしたとも言われています。 鎌倉時代の文書にも名前が出現していますが、言い伝えの起源は定かではありません。古くは砂丘地の海岸に漂着した高句麗使節の使者を埋葬した墳墓の跡とも、江戸時代末期に回遊する鯨の群れを見張り、捕獲した鯨の眼球を埋めてその霊を弔った跡とも伝えられています。 1986年(昭和61年)に内灘町の文化財に指定され、現在は地元の室地区の方がこの場所を管理してくださっています。
(「内灘町史」より)
メタセコイヤ並木
河北潟干拓地内にあり、夏の涼しげな緑の木陰も良いですが、秋の紅葉も巣晴らしく、冬は雪の降り積もった白い小道も、ため息が出るほど美しい場所です。春夏秋冬、朝、昼、夜とそれぞれ違う美しさを見せてくれます。写真を撮るにはもってこいの隠れたスポットです。
ひまわり村
河北潟干拓地内にあります。ふるさとの水と土への慈しみ、農業への理解と親しみを深めてもらう目的で1995年(平成7年)に開村しました。
毎年7月下旬から8月上旬にかけて、35万本あまりの大輪のひまわりが咲き誇り、ひまわり迷路や展望台、ライトアップも好評です。子どもからカップル、お年寄りまで楽しめる、黄金色の宝箱!
4月下旬から5月上旬にかけては、クリムゾンクローバーが満開です。付近にはコクのある、一度食べたら病みつきになること間違いなし!の超美味ソフトクリームや乳製品が楽しめるお店も複数ありますよ。